衝動で書いた文章:「述懐」その1

 しがないサラリーマン暮らしを始めて一ヶ月ほど経過した。遅くまで会社にいることもあるし残業代なんてものも出ない。働き始めてやはり面倒に感じること、先の不透明さに頭を抱えることは現在も往々にしてある。朝は6時半に起床し、朝食を用意して着替え、ゴミ袋を抱えて家を出る。仕事はこの不景気なのに有難い話で、割と忙しい。現在は少なからず回復の兆しが顔を覗かせている印象があるし、天候も暖かく、時には暑くと穏やかになってきた。
 帰宅しても平日は少しのゲームとテレビくらいしか行動する気力が起こらないものだ。翌日の朝も仕事なのでそれを考えて、洗い物と風呂に入って眠る。完全週休2日という訳でもない。休みの日でも午前中に起きて洗濯と掃除をして、やっと午後にゆとりのある時間が持てる、といった感じだ。とはいえ、将来自分が必要とする物を手に入れなければならないためそこまで遊べる訳ではない。固定費との勝負をしていかねば。最近の日記のとおり、平凡な社会人ライフを生きている。そろそろ本題に。

 やはりタイトル通り、自分に正直な話をしていけたらと思う。そうでなくてはこれを書く意味もない。俺は大学進学、就職活動と程よく手を抜いてやってきた結果として現在がある。大学進学に当たっては費用の安さと家庭事情だった。さほど努力もしていないので学力もない。また薄給多忙なこの業界に身を置きたいと考えた理由は、自分が今までやってきた活動で楽しかったというのが表向きの理由である。もちろんこれも全体の6割程度はある。
 それだけではない。余計な事を考えたくはない。なんとかして暇の無い状態を作り出すことによってそれを排除できればと考えていたのだ。学生の時、金こそ無いが暇はある。そんなときに自分はろくなことを考えていなかったような気がする。「このまま適当に生きていても構わないだろう」とか、「どうせ景気は悪い」などと。
 残念ながら自分はコンプレックスと世間体の塊でできたような人間である。だからこそ世間様、しかも旧来の価値観どおりの生活を望んだ。その結果、大学を卒業して会社に入り、そこで社会の歯車として働き、一生を終える。これを信念ということが許されるのならば、それ以外自分には持ち合わせるものはない。

 残された時間は長くない。自分たちは不老不死ではない。例えば余命を宣告された人間に「いつか」ほど実を生み出さない気休めは無いだろう。そんなことを思ったので一気にこの文章を勢いだけで書いた。今後またこのような文章を書く機会に恵まれたなら、自分の内面にある混沌としたものを愚痴ではなく表に出せたら、と考えている。日記は通常通り続けていく予定だ。